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ビール王から製紙王へ譲られた茶碗
ビール王から製紙王へ譲られた茶碗
2023-06-19 UP
本手魚屋の名碗「橘」。大日本麦酒、現在のエビスビールの創業者である馬越恭平が所蔵していたが、王子製紙を作った藤原銀次郎へと譲られた。二人は益田鈍翁をはじめとした三井財閥の中心人物として活躍した。この魚屋茶碗は背が高く本手と呼ばれ、高台脇から腰にかけての削りだしが高く、見込みの茶溜まりが一段深く見処となっている。魚屋は総じて目跡が多いがその数特に多い。
この茶碗には、こんなエピソードがある。藤原銀次郎の奥様が馬越家にお茶で呼ばれてこの「橘」を見て一目惚れして、どうしても譲って欲しいと懇願したそうだ。藤原夫人は後に「魂の底まで魅了されてしまった」と語っている。しかし、馬越家とて秘蔵の名器。首を縦に振らず。藤原銀次郎からの再三の打診にも話しは一向に進まない。そこで茶道具商の山澄を仲介に立て、手を替え品を替え馬越へ懇望し続けた。その熱心さは二年間に及んだと言う。そこまでならばと馬越恭平も、金銭で譲る訳には行かないが藤原家の彫三島 茶碗と交換ならばご所望に応じようと言うことになった。こうしてやっと名碗「橘」を手に入れたのである。二年かけて藤原夫妻の望みを遂げた仲介役の山澄の苦労も並大抵ではなく、藤原秘蔵の「伊予切」をご褒美に戴きたい。と言い後に重要美術品に指定される逸品を快く山澄へ贈ったのである。
この話しには続きがある。藤原の茶友、畠山一清が魚屋の話を聞き「実に惜しいことをしたものだ。藤原家の彫三島は日本一の逸品だと思っていたのに。魚屋茶碗と取り替えて、しかも伊予切まで山澄にくれてやるとは。正気の沙汰ではない。藤原さん夫妻は少し頭がどうかしているのではないか」この話が藤原夫妻の耳に入ると藤原夫人は「是非、魚屋茶碗で茶会を開いて畠山さんをお招きして私たちの目が狂っているかどうか見ていただきましょう」となった。しかし茶会を開く前に畠山夫人が世を去り藤原夫人も長逝してしまったのである。しかし夫人の追善茶会を催した藤原は正客に畠山一清を招いた。掛物は伊予切で表装を花橘にした。畠山は伊予切の見事なことを賞賛して追善にはふさわしい古歌と語り、いよいよ魚屋茶碗を穴があくほど仔細に見たと言う。畠山一清からどんな挨拶があるかと楽しみに待ち構えた藤原銀次郎だが畠山は一言も茶碗については語らなかった。結局、茶碗には一言も触れられずに茶会は終了した。これには藤原銀次郎も拍子抜けだったようだ。二日目の正客、松永安左衛門(耳庵) も魚屋茶碗のいきさつは知っていたので「昨日の正客の畠山君はこの茶碗をなんと挨拶されたか」と。何も挨拶がなかった。と言うと「それは怪しからん。この茶碗の値打ちがどれほどか正客と亭主で堂々と意見を戦わせるべきだった」と語っている。まもなく畠山一清から藤原銀次郎に手紙が届いた。
「去る十九日は真に御心こめられたる御茶賜り難有御礼申上候。何と申しましても花橘は奥様にて候茶碗は見れば見る程不思議なる存在と存候。掛物と共に美の極至、比類なき完璧美と感受いたし候………」
追伸 今暁奥様の夢を見ました「今回のお茶は私生前入念の取組で其上更に君子が橘の生花までさし添えた程の心入れで此上もなく結構なお茶になり皆も悦ばれ大変悦んでおります」
このような鄭重な手紙が届き「橘茶会」は幕を閉じた。
※昭和前期、東都の数奇者夫人からなる「清和会」が発足され馬越夫人をはじめ、畠山、藤原、堀越、益田、塩原、など13人によるもので「和敬清寂」より命名された。籤引きで当番が決まり記念すべき第一回「清和会茶会」は六月、馬越泰子氏により釜が掛けられ藤原夫人も出席されている。このときの茶碗が「橘」であった。
【あとがき】
今年は馬越恭平の没後90年に当たる年で、過日の東茶会でも馬越家旧蔵の道具の取り合わせによる茶会が催されました。本席の説明係を仰せつかり馬越家ゆかりの道具のお話を少しだけさせていただきました。
魚屋茶碗の「橘」は先月の東京美術倶楽部に於ける法隆寺金堂焼損壁画保存活用支援茶会にて主茶碗として使われました。
この茶碗のエピソードを執筆するに当たり、小堀宗実御家元より貴重な資料を拝見させていただきました。厚く御礼を申し上げます。
文:河善 河合知己
写真:藤原銀次郎と魚屋茶碗「橘」(パブリックドメイン)
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