早春の時期を迎えましたが、皆さまお健やかにお過ごしでしょうか。日頃より茶の美「お知らせ&特集」ページをご愛読いただき誠にありがとうございます。 さて、令和3年12月の茶道文化新聞に、茶の美の参加店『玉鳳堂』について「明治・大正・昭和の面影を辿る~茶の湯 近現代の記録 第一話」として記事が掲載されました。茶の美特集ページでも、今月3回に分けて掲載されました記事をご紹介して参りたいと思います。 <写真>玉鳳堂 4代目 山田高久
玉鳳堂 備前伽藍香合 第1回 此の度、機縁(注1)がございまして、私共の古美術店の小史から、幾つかのエピソードを寄稿させて頂く事となりました。生前の祖父母や父母から耳にしておりました事も含め、お伝えさせて頂きたく存じます。甚だ僭越とは存じますが、暫しお付き合い頂けましたら嬉しゅうございます。 私共は南青山骨董通りで茶道具を扱っております山田玉鳳堂(ぎょくほうどう)と申します。本年令和3年(2021)で創業126年となりました。当代 山田高久で4代目でございます。 明治28年(1895)、曽祖父 保次郎(注2)が日本橋仲通りにて創業致しました。(日本橋・京橋仲通りは関東大震災や空襲による星霜も経ましたが、昔も今も、美術愛好家にとって魅力的な美術店が立ち並んでおります。) 大正12年(1923)の関東大震災では仲通り(地図参照)一帯も類焼し、保次郎も命からがら焼け出されてしまいました。予て御愛顧を賜わっておりました松平直亮(なおあき)(注3)伯爵をお頼りして、四谷の御屋敷近く、信濃町へと移転致しました。其の頃、大阪の太田佐七商店で六年の修業奉公を終えて帰京した祖父 健太郎(注4)と共に親子協力しての仕事となりました。 山田家の信濃町の家屋・茶室は、仰木魯堂(おおぎろどう)(注5)の手に成る佇まいでした。高橋箒庵(そうあん)の東都の茶道本山の構想・指揮の下、護国寺に茶室群を整えた魯堂の大仕事は、後世へと茶会の愉しさを数多与えてくれております。団狸山(りざん)の道具奉行としても知られ、茶人としても広い交友関係を持ちました。 但、明治三十八年(1905)の上京直後には、未だ知己も少ない中、年齢も近い保次郎と意気投合。心からお茶を楽しめる、東京で初めての茶友となりました。玉鳳堂の保次郎ですので、皆さんから玉保(ぎょくやす)さんと呼ばれていたそうです。 仲通り時代の一つのエピソードがございます。 京橋の借家にも、お茶を愛する魯堂さんは、どうしても茶室を作りたく、大家さんに話したところが 「とんでもない!」 と即座に断わられてしまいました。保次郎に相談したところ、 「構わずに内緒でお建てなさい。但し、完成したら最初に大家を招く事だよ。」 と背中をおされました。 果たして二畳台目の小間が出来上がると、一会が設けられ、夕餉を建前に大家さんが招かれました。保次郎はお相伴役です。訪れた大家さんは知らぬ間の建増しに驚きながらも、保次郎の説明の中、酒飯が進むに連れて和やかな雰囲気となって参りました。愈々、お茶の段へと移る折、露地も燈籠とて無い夜会ゆえ、軒先に吊るしておいた土産物のフグ提灯がメラメラと燃え始めてしまいました。大慌てする大家さん、水指の水を打ち掛けて消火する魯堂さん。幸い火は消えたものの、同時にお茶事も消し飛んでしまいました。きっと二人共、頭をかきかき、後で大笑いになった事と思います。 落語の様な顛末ですが、未だ世に出る前の魯堂さんや、保次郎のお茶を愛する気持ちは丸で子供の様な無邪気さもあり、愛嬌あるフグ提灯と共に、何やら微笑ましく思えるエピソードでございます。しかし此の様な二人がその後、其々の分野を極めながら、近代数寄者達との交流を深めて活躍してゆく事を、当時誰が知り得たでしょう。 第2回へ つづく~ 【注1】機縁 「茶道文化」の前身に「美術」という東茶会の機関紙があり、祖父 山田健太郎らの肝煎りで戦後復興期の昭和24年に創刊されました。その8年後の休刊の折、「美術」で記者を務めていた山瀬隆氏(山本現社主のお父様)が「茶道文化」と名称を改め、引き継いだという経緯があります。 【注2】山田保次郎 王鳳堂初代。万延元年(1860)〜昭和18年(1943)。名古屋出身。83歳没。号 松荷庵。 【注3】松平直亮 雲州松平家13代目。慶応元年(1865)〜昭和15年(1940)。松江生まれ。74才御逝去。正二位。号 簡堂。貴族院議員。農業経営者。和漢と欧米の文化教養を兼ね備えられ、茶の湯を好まれた。 【注4】山田健太郎 玉鳳堂二代目。明治30年(1897)〜昭和55年(1980)。東京生まれ。83歳没。店主継承前の名前は保蔵。号 瓢庵。通称 山健。東京美術倶楽部会長、大師会・光悦会の東京地区世話人などを務める。昭和五十年(1975)、国の美術普及の長年に亘る貢献を認められ、美術商業界では初の叙勲を授与される。 【注5】仰木魯堂 数寄屋建築家、数寄者。文久3年(1863)〜昭和16年(1941)。福岡県中間市生まれ。78歳没。本名 敬一郎。別号 歩鰲庵(ほごうあん)。
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