江戸琳派の祖「酒井抱一」について 森田大揮 2024-04-04 UP

◎江戸琳派とは
 「江戸琳派」と言えば、皆さんは誰を思い浮かべるでしょうか。
遡れば尾形光琳からなる琳派ですが、江戸時代にそれを継承して広めたのが「酒井抱一」です。抱一は名を忠因といい、姫路藩主酒井雅楽頭家の四男として生まれ、幼い頃から絵を嗜んでいます。そして西本願寺文如上人によって得度し出家、大僧都となって抱一を名乗るようになります。築地本願寺に抱一のお墓があるのは、そういった繋がりがあるからなのです。
 抱一は根岸に「雨華庵」という画房を構え弟子たちと過ごし、江戸琳派の画風を確立していきます。そして画房を継がせるために、養子を取りながら雨華庵二世として酒井鶯蒲、次いで三世鶯一、四世道一と代々酒井姓を名乗り継いできました。
 今回はそんな中でも、江戸琳派の祖と言われる「酒井抱一」の作品に焦点をあててみようと思います。


銀座美術 森田大揮氏

◎酒井抱一の作品について
江戸琳派の作風というと、岩絵の具をたっぷりと使った豪勢な色使いというのを思い浮かべますが、茶掛けの作品も多く存在します。例えば

「松花堂 仲麿之図」酒井抱一筆/田中抱ニ極箱

こちらは「松花堂昭乗の描いた阿倍仲麻呂の自画賛を抱一が写したもの」であると抱ニが箱に極めています。恐らく元となる絵が手元にあることを知っていて、このように表しているのだと思います。



 抱一が松花堂のことについて触れる作品は、私の知る限り多くは残っておりません。こちらはその中でも「天の原 ふりさけみれば春日なる 三笠の山に 出でし月かも」の和歌を画賛しており、続けて「唐人に いまぞ名残を ふりさけて 三笠の山に 月は出けり」と松花堂(もしくは抱一)がオリジナルで書いています。遣唐使として唐に渡った阿倍仲麻呂が"三笠山"に想いを馳せた歌ですが、その後の詠嘆を代弁しているかのような追歌は、まるで情景が浮かぶようです。


天の原 ふりさけみれば春日なる 三笠の山に 出でし月かも (百人一首)


唐人に いまぞ名残を ふりさけて 三笠の山に 月は出けり

 こういったストーリーは茶席での会話が広がり、様々な考察が出てくることもありますよね。
 当店が扱う江戸千家の流祖である川上不白も、江戸で活躍していた狩野派などの他にも江戸琳派の流れを汲んだ中村芳中等との合作も多く存在します。美術館などで目にする琳派というとどうしても絵の要素が強くなりますが、江戸琳派、特に酒井抱一のパトロン的存在であり作品も多数所持していた江戸料亭の八百善、栗山善四郎も定期的に茶事を開いています。茶掛けとして掛けて良いものも多く存在することを、是非知っていただけたら幸いです。

文:銀座美術 森田大揮
写真:佐野光芸社 佐野義之


「松花堂 仲麿之図」酒井抱一筆/田中抱ニ極箱

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