井戸茶碗の中でも名碗の一つとされるのが銘「有楽」、通称有楽井戸である。口径は十四・七糎にも及ぶ堂々たる大井戸茶碗。側面と高台のバランスは絶妙で、器形は格調高い。加えて桃色に近い枇杷色の肌に轆呂目が仄かに見え、また梅華皮は穏やか。国宝に指定されている銘「喜左衛門」(大徳寺孤篷庵蔵)を比較に出せば、喜左衛門井戸は対照的に乱れた梅華皮、そして側面の大きなひっつきと、所蔵者は腫物の病魔に見舞われるという伝説を首肯してしまうような凄味を醸している。これを剛とすれば、有楽井戸は柔。しかし、中庸な美であっても吸い寄せられるような魅力を湛えている。
伝来を辿れば、有楽井戸に魅せられた幾人もの茶人、数寄者が連なる。古くはその称の由来となった織田有楽、そして稀代の画家、英一蝶に金銀字で「有楽井戸」と箱書させた紀伊国屋文左衛門等々。近代における系譜は明治時代、建築家として活躍した伊集院兼常、藤田財閥の総帥、藤田香雪、そして「電力の鬼」と畏怖された松永耳庵である。昭和十二年四月、藤田家所蔵品の入札が行われた際、その白眉である本品を巡り幾人もの近代数寄者が思いを馳せた。中でも益田鈍翁は「茶道本山」と通称される程の茶歴とコレクションにも拘らず不思議と大井戸茶碗に縁が無く、本品を熱望したのである。鈍翁は出入りの茶道具商、伊丹信太郎に落札を命じたが、耳庵による落札に終わった。その価格十四万六千八百円を聞き、阪急財閥の創始者で耳庵の茶友、小林逸翁は「松永が道具屋のおだてに乗り馬鹿な価格で買った」と評し、他方、耳庵は「二十万円でも買うつもりであった」と嘯(うそぶ)いた。面目を失った伊丹は「このたびはなにも取りあえず手向山 紅葉の錦かねのまにまに 詠人かねけ」と菅原道真詠の和歌を本歌取りして鈍翁に詫び、かろうじて赦される。鈍翁は一年だけ持たせてほしいと願ったが、これは通らなかった。
そんな耳庵も戦後、蒐集した名品を一括国に寄贈する。本品が東京国立博物館蔵となっているのはこのためである。幾人もの茶人、数寄者が本品の所蔵という僥倖に挑み、そして財力と運に恵まれた者のみがこれを果たした。十五世紀から十六世紀まで遡る本品の歴史において、既述以外に記録されざる様々なドラマが展開したことであろう。それは「伝来」という一言では言い尽くすことができないものであったに違いない。しかし、今は国民の共有財産としてガラスケースの中に静かに陳列される。広く本品に接することができる喜びの一方、名物流転の絵巻が積み重なることは最早無い。これに対しある種の退屈を感ずることは贅沢過ぎるのであろうか。
文:茶道研究家 岡田直矢
写真:大正名器鑑より