『茶道具名物譚 油屋肩衝』岡田 直矢 2022-12-19 UP

 十八世紀後半から十九世紀初頭にかけて、名物茶道具の蒐集に一生を捧げた人物がいた。その名を松平治郷(はるさと)、通称・不昧(ふまい)という。出雲松江藩十八万六千石の藩主であった。
 不昧が茶道を始めた契機はその激しい気性を矯正しようとした家臣からの勧めにあった。ところが、不昧は斯道に傾倒、逆に諌言されるに至る。不昧のこれへの答えは「茶の本意は、知足を本とす。茶の道は皆分々の足事を知れと云ふ方便なり」、「此道を得度して、是を以て治むる時は、天下国家を治る助共成べし」というものであった。即ち道具茶を否定し、知足の境地に浸ること、そして、それは治世にも有益であることを雄弁に述べたのである。弱冠二十歳の言であった。
 しかし、不昧も直に名物茶道具の魅力に抗し得なくなる。既述の言から僅か四年後には中興名物の伯庵茶碗を五百両で購入。以降、まるで前言を翻すかのように名物茶道具を求め、その蔵帳(「雲州蔵帳」)に記録される蒐集品は八三九点にも及んだ。
 これら蒐集品はその価値により数段階に区分けされる。最高格は「寶物」で、その中でも一位を占めるのが肩衝 銘「油屋」である。唐物茶入の例に漏れず大振り。高い甑。肩衝の名の通り張った肩から胴はやや孤を描きつつ下がり、胴紐を過ぎて腰は窄まる。盆付は板おこしで、時代の唐物の特徴である。茶色の地に置方(正面)は黒味がかった飴釉が肩から腰へと流れる。
 

 驚愕するのが次第である。牙蓋四枚、仕覆六枚、若狭盆、千利休筆の添状、不昧筆の小巻物が添い、それぞれの挽家や袋、箱、外箱は勿論、本品とこれら付属品を一括して収納する笈櫃まである。参勤交代の際は、不昧の駕籠から至近の距離で運び、また夜は寝所の隣室で保管、不寝番に警戒させた。不昧は本品と文字通り日夜を共にし、愛蔵したのである。このような取り扱いをしたのは本品と圜悟克勤筆の墨蹟(通称「流れ圜悟」)のみであった(ただし、後には運搬するのは却って危険として江戸に留め置くようにした)。また、茶事、茶会での使用もせず、松江藩家老ですら一代に一度しか拝見を許さなかった。
 

 銘「油屋」は堺の豪商、油屋常言、常祐父子が所持したことによる。それ以降、豊臣秀吉、福島正則、柳営御物、土井利勝、河村瑞賢、冬木喜平次(材木を扱う江戸、深川の豪商)に伝来し、不昧が譲り受けた。対価は千五百両であったが、雲州蔵帳上の「位金」(不昧自身が評価する本質的な価値)は「一万両」と記される。冬木家は天明の大飢饉に伴う業績不芳から安価での譲渡を余儀無くされたが、逆の立場にあった不昧は得意であったことが想像される。
 本品は戦後、雲州松平家から畠山即翁に譲渡されたが、当然、即翁の愛玩振りも同様であった。昭和四十一年、不昧の没後百五十年忌に島根県知事、田部長右衛門たっての要望により松江で特別に出陳された際は、パトカーに護衛されて会場まで運ばれた。これは既述の参勤交代時の扱いの現代版と言えよう。
 このように茶道史上、数寄者達を執心させてきた本品は、現在、畠山記念館に収蔵されている。
 


文:茶道研究家 岡田直矢
写真:大正名器鑑より

 
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