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令和4年度黎明館企画特別展「茶の湯と薩摩」(令和4年9月22日~11月6日)に寄せて
令和4年度黎明館企画特別展「茶の湯と薩摩」(令和4年9月22日~11月6日)に寄せて
2022-09-19 UP
茶の湯と薩摩
鹿児島県歴史・美術センター黎明館学芸専門員 深港恭子
喫茶から茶の湯へ
鹿児島県内の中世城館跡では、中国産の青磁・白磁・青花に加え、天目が数多く出土する。こうした状況は、当時、中国大陸に近い九州、そして薩摩(大隅・日向を含む)が海外交易の拠点となっていたことに起因すると考えられる。東シナ海に面した万之瀬川流域にある芝原遺跡(鹿児島県南さつま市)は、中世を通じて大規模な中国貿易の拠点であったと考えられており、15~16世紀代に比定される中国産天目が多数出土している。薩摩領国内の中世城館跡から中国産天目や茶臼などが出土する状況は喫茶文化の受容を示すもので、それらが博多や京都、堺を経由せず、貿易拠点を通じて直接的に中国からもたらされた可能性を示している。
芝原遺跡出土品 天目(中国)
15~16世紀 鹿児島県立埋蔵文化財センター
天正3(1575)年、島津貴久の四男家久が伊勢神宮などを参詣するために上洛した。その道中日記である「中務大輔家久公御上京日記」によれば、家久は明智光秀に招かれ茶を勧められた際、「茶湯の事、不知案内」であるとして、湯を所望している。
また、島津義久や義弘に仕えた武将、上井覚兼が記した日記(『上井覚兼日記』)によれば、天正10年以降は頻繁に茶の湯が登場し、日々の暮らしに深く溶け込んだ姿が記されている一方、天正4までは、いわゆる茶の湯に関する記述は見られない。つまり、天正4年から同10年の間に、茶の湯の受容という画期があり、上級武士らの間で急速に広まった可能性が高い。
天正11年3月17日には、近衛信尹の家司である進藤長治、足利義昭とその元家臣であった細川幽斎の使者で手猿楽師の堀池宗叱らと茶の湯が行われている。応仁の乱(1467~77)以降、京の公家や僧侶が地方の大名のもとに支援を求めて身を寄せることが増え、中央の文化が地方に広まったとされるが、進藤や堀池らが来薩した目的も、支援を求めることにあった。薩摩においても京都から派遣される文化人たちを歓待し、茶の湯が浸透していったと考えられる。天正3年から翌年にかけて、近衛前久が薩摩に下向しており、京文化の受容に大きく寄与したと考えられる。
茶人島津義弘と茶陶製作
こうした領国での茶の湯を一変させたのが、天正15 (1589) 年の豊臣秀吉による九州平定であった。島津義久が降伏し、講和の場に巧みに組み込まれていた茶の湯を通じて、義久・義弘は「御茶湯御政道」に深く関わる侘茶に出会うことになる。
義久を茶会に招いた秀吉は、自ら茶を点てて義久に勧め、茶道具に唐物茶入の白眉といわれた「初花肩衝」を用いた。翌年上洛した義弘も、大坂城山里丸で秀吉の茶会に招かれている。武野紹鴎秘蔵の風炉、今井宗久から召し上げた白天目、大友宗麟が献上した似たり茄子の茶入など、秀吉自慢の名品が用いられ、義弘は千利休が点てた茶を飲んだ。こうした破格のもてなしで義久・義弘が目の当たりにしたのは、秀吉の権威であった。とはいえ、義弘にとってみれば、師と仰ぐことになる千利休と出会い、深く茶の湯に傾倒するきっかけとなった。
秀吉が朝鮮半島への出兵を発令し、義弘は文禄元(1592)年、軍を率いて渡海している。朝鮮在陣中も常に鶴首の茶入を携行し、折々に茶を飲んだという。島津家の重物として伝来した唐物茶入「漢作肩衝 銘 平野」は、朝鮮出兵の折の恩賞として秀吉から義弘に下賜されたもので、寛永7(1630)年、三代将軍徳川家光の江戸桜田藩邸への御成でも用いられた。
鹿児島県指定文化財
漢作肩衝 銘 平野
中国 世紀 14 ~ 13・元時代~南宋
尚古集成館
そして、秀吉の死により朝鮮半島から退却することになった慶長3(1598)年、義弘は朝鮮陶工らを連れ帰り、薩摩領国に薩摩焼という新たな産業を生み出していく。
薩摩焼の茶陶の登場は唐突である。島津家文書によれば、慶長9(1604)年には義弘から送られた茶入の出来栄えを古田織部が「焼しほ一段能御座候」と賞賛し、数寄者や在京の諸衆が入手を望む状況となっている。慶長17年11月の古田織部書状から、上田宗箇が織部の名代として薩摩に派遣され指導を行ったこと、義弘が肩衝に対する評価を具体的に記し指導を行ったことが判明する。その内容から、織部好みの薩摩茶入とは、背が高く大振りで、筒状の器形に黒釉がたっぷりと掛かり、所々に白釉が浮かぶ肩衝形であったと理解できる。
国宝
古田織部書状 十一月二十二日付 島津義弘宛
江戸時代・慶長17(1612)年
東京大学史料編纂所
薩摩肩衝茶入
江戸時代・17世紀
沈家伝世品収蔵庫蔵
薩摩焼の初期の茶陶としては、茶入に加え、義弘好みの「御判手」や、朝鮮の原料と技術を用い、火のみが薩摩である「火計手」と称される茶碗などが知られる。
白釉御判手茶碗 銘 すはま
江戸時代・17世紀
個人蔵(鹿児島県歴史・美術センター黎明館保管)
白釉火計手茶碗
江戸時代・17世紀
沈家伝世品収蔵庫
大名茶への展開
義弘亡き後の茶の湯と茶陶製作については不明な点が多いものの、薩摩茶入では、小堀遠州好みの瀟洒な茶入が伝世している。鹿児島城の近隣に築かれた藩窯の竪野冷水窯跡からは、遠州好みを反映した茶入片が数多く出土しており、藩窯が茶陶製作を担ったことがうかがえる。
薩摩瓢形茶入 銘 春乃夜
薩摩 竪野系・竪野冷水窯
江戸時代・17世紀
沈家伝世品収蔵庫
江戸時代を迎え、島津家にとってとりわけ重要な茶の湯の出来事は、寛永7(1630)年に行われた三代将軍徳川家光と大御所秀忠の江戸桜田藩邸への御成であろう。莫大な経費がかかるにも関わらず、名誉なことと受け止められ、島津家でも新たな建物が建造されている。御成は、まず数寄屋での膳部と茶に始まり、鎖の間での茶道具御覧を経て、寝殿(御成書院)で式三献、七五三の膳、十二合の折と進み、その後、会所(広間)での進上物、寝殿での七五三の膳、続いて能御覧の後、還御となった。この御成では、特に薩摩藩が統治していた琉球の楽人による披露がなされている。
しかし、こうした御成も秀忠が亡くなると途絶え、「武家諸法度」の参勤交代制度による統制が整えられていくと、外交の場としての茶の湯の意味は次第に失われていく。『職掌起源』には、薩摩藩の茶に関する役職として、御同朋衆(初名御茶道頭)、御隠居御付茶道頭、奥御同朋、奥茶道(初名御側御茶道)、御側茶の湯の諸役が挙げられており、これらの役職の人々が茶室や道具の管理、儀礼や儀式における茶の湯の運営を担った。こうした動きに伴い、歴代藩主と茶の湯の関わりについても、その姿が見えにくくなる傾向があるが、島津綱貴、吉貴、斉宣、斉興、斉彬の茶の湯との関わりを示す資料が伝わっている。
一例を挙げれば、十代藩主斉興は、嘉永3(1850)年12月3日、将軍家慶から唐物「朱衣肩衝」を下賜されている。武家に茶器を下賜することは暗に隠居を命ずることを意味し、結果、拒み続けていた嫡男斉彬への家督相続が実現されている。
文:深港恭子(ふかみなと きょうこ)/鹿児島県歴史・美術センター黎明館学芸専門員
令和4年度黎明館企画特別展「茶の湯と薩摩」
日本を代表する文化である「茶の湯」は、平安末期から鎌倉時代、禅宗とともに中国からもたらされた抹茶を飲む習慣に始まり、時代とともに道具や作法、設えが整えられ、独自の文化として発展しました。安土桃山時代、千利休(1522~1591)が「侘茶」を大成したことにより完成期を迎え、現代まで受け継がれてきました。
本展では、歴史の動向やさまざまな文化交流によって育まれ、拡がりを見せる薩摩の茶の湯の様相を、茶道具を中心に歴史資料や出土遺物等を通じて紹介するとともに、茶の湯の中で重用された名品の数々を紹介します。
■会期:令和4年9月22日(木)~11月6日(日)9:00~18:00(入館は17:30まで)※初日は10時開場〈 休館日〉9月26日、10月3日・11日・17日・24日・25日・31日
■会場:黎明館 2F 第2特別展示室
■観覧料:一般800円(600円),大学生500円(350円)※()内は団体20名以上,前売券料金。高校生以下・障害者無料。
★関連行事として講演会・茶会・呈茶席・ワークショップなど多数ございますので詳細は下記リンク 鹿児島県黎明館のホームページをご覧ください。
▼詳細は下記リンクにて
鹿児島県黎明館「茶の湯と薩摩」
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