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茶道具名物譚 宮王肩衝 岡田 直矢
茶道具名物譚 宮王肩衝 岡田 直矢
2023-05-20 UP
鎌倉、室町時代に遡る茶道史において茶入重視の伝統があったことは前回記した通りである。前々回は油屋肩衝がテーマであったが、同肩衝が松平不昧のコレクション(雲州蔵帳物)で筆頭の宝物とされたことはこれを体現するものと言えよう。
同様の例として宮王肩衝が挙げられる。歴史を辿れば、朝倉九郎左衛門が所持し宮王(宮尾とも)道三に伝わった。道三は堺の人。金春流の能役者で、千利休の高弟であった。銘「宮王」は同人に由来する。松井友閑(織田信長の堺代官)の所持を経て、豊臣秀吉に献上された。豊臣家滅亡の際、徳川家康が入手し、家康は井伊掃部頭直孝の戦功を称え下賜。以降、百万石に代わる拝領物、井伊家筆頭の宝物として同家に伝来した。
本品を見ると、初花、油屋両肩衝と比較しやや細身との錯覚を抱く。それは一センチメートル程、後二者に勝る高さに因る。紫褐色の地に黒釉が垂れ、それは胴紐の下で一筋と化し置形を成す。盆付は時代の唐物の例に漏れず板おこしである。大正九年十月二十五日、『大正名器鑑』執筆のため本品を実見した高橋箒庵は「相好円満にして品位高く、地色紫に茶味を帯び、其色冴え〴〵しきが故に、黒飴釉景色分明に現はれ、黄釉及び青瑠璃釉共に光沢麗しく、全部無疵にて、十分大名物の品位を具へたる茶入なり」と賞賛している。
周知の通り、井伊直弼は本品が伝来した井伊家の幕末の当主である。直弼は茶人としても知られ、数冊の自会記や家臣による茶事の他会記が残されている。しかし、これらで本品が使われた記録は見られない。権現様下賜の重宝故に直弼と雖も簡単に接することを控えたのが第一の理由であろう。加えて、直弼の茶風も理由ではなかったか、と筆者には思われる。即ち直弼は当初、嗣子でなく自ら埋木舎(うもれぎのや)と呼ぶ質素な邸で不遇な青年時代に甘んじた。本品を初めとする家蔵名物茶道具は手に取ることも叶わない「近くて遠い」品々であった。このような中、「なすべき業」と自身に言い聞かせて禅と共に修行した茶道では、茶道具より点前や茶道史の知識、そして高い精神性を指向していったのは自然であろう。晩年の主著『茶湯一会集』で提唱された「一期一会」、「余情残心」、「独座観念」はその白眉である。
本品の歴史に更なる一頁が加わったのは直弼の死から数十年が経過した後である。大正十二年九月一日、関東大震災が発生、東京、九段の井伊家の邸は業火に見舞われ、八つの土蔵は全て焼き尽くされた。辛うじて持ち出されたのは本品と彦根屏風(現在、国宝に指定)、そして幕末の重要資料を入れた鞄数個のみであった。前二者が守られたのは文化財としての価値から当然である。井伊家の人々がこれらに加えて特に後者を守り抜いた理由は何処にあったのであろうか。
その答えは直弼への敬慕の念にある。直弼は安政の大獄において尊王攘夷派を弾圧したとして当時、国賊の誹りを受けており、この汚辱を晴らすことは井伊家の人々の宿望であった。そして、私心無き直弼の証明として期待されていたのがこれらの資料であったのだ。
一万数千点に及ぶ同資料は戦後、東京大学史料編纂所に寄託され、研究が進められている。他方、本品は彦根屏風、そして井伊家が彦根等で所蔵してきた他の品々と共に彦根市に寄贈され、時折、彦根城美術館で展示されている。幕末の政情に翻弄された直弼。しかし、より長く歴史の波に翻弄されてきたのが本品である。そして、今日、硝子ケースの中で静かに佇む。直弼の霊はこれを見て如何なる感慨を抱いているのであろうか。
文:茶道研究家 岡田直矢
写真:大正名器鑑
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