肩衝茶入 銘 大嶋 2023-09-20 UP

 遠山記念館ではこの秋、特別展「瀬戸焼と美濃焼」を開催する。遠山記念館で所蔵する瀬戸と美濃の陶器を並べる展示で、また個人蔵のコレクションから江戸時代から近代にかけての作家物も紹介する。この展示で特に強調したいのが、「肩衝茶入 銘 大嶋」(以下「大嶋」と省略)である。
 
この「大嶋」は、今一つ知名度の低い茶入である。地味ながらも実は柳営御物で、瀬戸茶入の名物の中では古株の一点と言える。特異なのは、その約12㎝という大きさである。唐物の肩衝茶入は10㎝を超えることがないが、16世紀の末に瀬戸周辺からこの種の大型の肩衝が登場してくる。この一群は古瀬戸茶入の中でも、時として「大瀬戸」と呼ばれる。
 「大嶋」はやや白味を帯びた緻密な素地を用いており、胴は中央のやや上でもっとも大きく膨らみ、胴は轆轤目を残して挽き上げている。かっちりと衝いた肩から頸にかけてはやや窪み、その頸が力強く立伸びることで、全体で力強い印象を生んでいる。裾までかけられた釉薬は、茶褐色の上に黒い斑を生じさせ、全体はやや紫色を帯びている。胴の中央のやや下で一条の沈線を一周させ、底部は目の細かい糸切りとする。
 
 大瀬戸の登場は、先にも述べたように16世紀、およそ豊臣政権期のことである。中でも有名な作品が、松平不昧が所持した「槍の鞘」だろう。豊臣秀吉から伏見奉行の石川貞清(?~1626)へ下賜されたと伝えられているが、当時は伏見奉行という職はない。貞清は木曽蔵入地の代官であり、伏見城築城の材木調達を意味しているのだろう。伏見城は慶長5年(1596)に一端竣工しているので、下賜されたのはこの時期と考えられる。同じく秀吉に仕えた長谷川宗仁(1539~1606)の「長谷川肩衝」、河内国平野郷の商人である平野道是(生没年不詳)の「平野肩衝」(畠山記念館蔵)がある。また慶長17年(1612)に徳川家康から高松藩主の生駒正俊(1586~1621)へと下賜された「生駒肩衝」(MIHOミュージアム)もこれと同手である。このように所有者の人名を冠した銘が多く、いずれも秀吉と家康周辺の人物である。
 

 さて「大嶋」の銘であるが、これも所有者の名前であると考えられてきた。しかし『大正名器鑑』の段階でも「大島某の所持せしものならん、其何人たるを知らず」とのみ記されており、これまでは不詳とされてきた。そこで桃山時代に「大島」を名乗った人物を探すと、大島光義(1508~1604)の名が見つかった。光義は美濃国関郡(岐阜県関市)出身とされる武将で、信長、秀吉、家康に仕え、特に信長から弓の腕を賞されて「雲八」の名を与えられた逸話で知られる。そして『寛政重修諸家譜』には、こんな記述がある。
  これよりさき光義領地にありて(家康に)茶入をたてまつりしところ、のちまた光義にかへし賜はる。
晩年の光義が家康に茶入を献上し、後に戻されたというのである。おそらくこの茶入こそ、「大嶋」なのだろう。「領地にあって」とあるが、京都にいた光義が秀吉から美濃の領地を拝領したのが慶長3年である。同年には秀吉が死去し、光義は家康へと接近していく。同5年の関ヶ原合戦の前には上杉征伐に同行し、小山(茨城県小山市)で転進して関ヶ原合戦に参加した。この時の褒章として郷里である関郡を所望したと伝承されるが、関は刀剣の名産地という軍事的な要所である。ここを任されたのは、徳川家からの信用が厚かったことを示している。ここに関藩1万8000石が成立し、光義は大名となった。光義が家康に茶入を献上したのは、その御礼と解すべきである。
 では、光義はその茶入をどこから入手したのだろうか。これに関連して興味深いのは、光義が入った関郡に隣接する美濃国武儀郡(岐阜県美濃市)に、金森長近(1524~1608)が居たという事実である。長近も美濃出身で、信長と秀吉、家康に仕えたという、光義と極めて近い来歴の武将である。また千利休に学んだ茶人としても名高く、その孫の金森重近(宗和)は宗和流の一派を立て、野々村仁清を指導したことで知られる。
 長近も光義と同様、家康の上杉征伐に同行して小山まで行っており、やはり家康に従って関ヶ原合戦に参加した。そしてこの前後の褒章として、長近は武儀郡1万8000石を加増された。長近はすでに飛騨国高山(岐阜県高山市)に3万8000石を領していたが、同地は養子の可重に譲って隠居し、実子の長光と共に武儀郡に移る。そして同地に晩年の居城である小倉山城を築城するが、光義の関陣屋とは直線距離にして約7㎞という地理関係なのである。
 ここからは想像となるが、光義が関郡の領地を拝領した際、その返礼について近くにいた長近に相談し、「大嶋」が斡旋されたのではないだろうか。実際にこの前後、金森家が大名に茶入を譲渡したという事実がある。細川家の永青文庫で所蔵する「肩衝茶入 銘 出雲」は可重の旧蔵品で、その銘は可重の官位が出雲守であったことに由来する。これを細川忠興(三斎)が懇望して譲り受け、細川家の家宝としたのである。
 また「出雲」は金森家が高山領内で茶入を捜索して見出したとされるが、細川家でもこれを真似て豊後領内を捜索したとされる。この時、家老の松井康之が差し出したのが「山の井」である。その来歴については、康之の家臣である稲津忠兵衛が丹後国亀山(京都府亀岡市)の貧家でこがしを入れるのに用いていたものを30文で買い取ってきたとされる。しかし「山の井」は「槍の鞘」によく似た大瀬戸であり、当時はまだ骨董ではなく新品だったはずである。上記の伝承は、より古い時代のものに見せるため、後に付けられたものだろう。
 光義はその後、慶長9年に京都で亡くなり、関市の大雲寺に葬られた。領地は4人の息子に分与され、関藩は消滅して旗本領となっていく。光義の茶入も、息子のいずれかに継承されたはずであるが、徳川幕府旗本が家康からの拝領品を譲渡する可能性は想定できない。おそらく茶入は、元和元年(1615)の大坂夏の陣で豊臣方について没落したという、四男の光朝(?~1663)が所持していたのだろう。光朝は岡山藩池田家を頼って落ち延びるが、その前後に処分されたとすれば無理はない。
 

 この後、「大嶋」は伊勢国津藩(三重県津市)の藤堂家の所有となる。そして『松屋会記』では元和5年に、藤堂高虎が茶入を四つ並べたという記述がある。
一藤堂和泉守様、関才次の所ニ而、客ハ中坊左近様、久好二人
 床ニ、ヲソ櫻肩衝・四聖坊肩衝・サイキ肩衝・上々瀬戸肩衝
   肩衝四ツ錺テ御茶被下ル
「肩衝茶入 遅桜」(三井記念美術館蔵)、「肩衝茶入 佐伯」(寧楽美術館蔵)、「肩衝茶入 銘 四聖坊(師匠坊肩衝)」(出光美術館蔵)はいずれも唐物の名物である。この3点と並んで飾られたという「上々瀬戸肩衝」も、「大嶋」であれば納得がいく。そして元禄16年(1703)に藤堂高睦が襲封した際、「大嶋」は将軍徳川綱吉へと献上された。なお『大正名器鑑』では内箱蓋表にある「大嶋肩衝」の墨書を小堀遠州の筆とするが、これはおそらく間違いである。現在「大嶋」についている桐材の内箱、黒漆呂色塗り金粉字の外箱の作りは、遠山記念館で所蔵する「文琳茶入 玉垣」と、几帳面の取り方や金具などが共通する。「玉垣」も将軍家で所持した「柳営御物」であり、元禄年間以降に将軍家で整えたものと見るべきだろう。このため内箱墨書が遠州という可能性はなく、遠州の筆とすれば挽屋の甲書だろう。袋や牙蓋なども遠州があつらえた可能性があるが、遠州が義父である高虎に、この大柄な茶入を見繕ったという想像も許されるだろう。その後、「大嶋」は幕末の混乱期にも徳川宗家に伝わり、大正7年(1918)には『大正名器鑑』編纂中の高橋義雄が閲覧している。

 最後に大瀬戸の茶入の評価について私見を述べたい。大瀬戸は天正年間から文禄年間にかけて登場してきた瀬戸茶入であり、その来歴に登場するのは秀吉周辺の人物ばかりである。その金銭的も高く、現在の茶道具の相場をはるかに超える、まさに一領地の年間の石高のような値であった。想像を逞しくすれば、秀吉政権の周辺で、褒賞の代わりに制作された、特注品であったとも考えられる。志野や織部に代表される美濃焼の人気の影に隠れてしまっているが、あるいは大瀬戸こそ、桃山茶陶を代表する存在なのではないだろうか。


文:遠山記念館 学芸課 依田 徹



◎筆者プロフィール
依田 徹(よだ とおる)
1977年、山梨県生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科芸術学専攻。博士後期課程修了。博士(美術)。遠山記念館学芸課長。専門は日本近代美術史、茶道史。著書に『近代茶人の肖像』『皇室と茶の湯』(共に淡交社)など。




特別展「瀬戸焼と美濃焼」

■会場:遠山記念館(
埼玉県比企郡川島町白井沼675

■会期令和5916日(土)~1119日(日) 午前1000~午後430(入館は午後400まで)
 休館日:月曜日、
919日、1010日(918日、109日は開館)

■入館料:大人1000円(団体20名様以上800円)、学生800円(団体20名様以上640円)
 中学生以下は無料 ※障害者手帳をお持ちの方は
200円割引となります。

■アクセス:JR川越線 or 東武東上線「川越駅」下車 東武バス「桶川駅西口」行き 乗車 「牛ケ谷戸」下車、徒歩15


瀬戸釉水指 永正18年(1521)


「志野宝珠香合 銘 尾上」桃山~江戸時代初期 16-17世紀


「黄瀬戸桜文平鉢」桃山~江戸時代初期 16-17世紀
 
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