座談会『江戸千家 川上宗雪宗匠』を訪ねて 2024-10-21 UP

 令和6年6月20日、梅雨の合間に訪れた晴れ間が、東京に暖かな一日をもたらした。この日、東京・上野に集まった茶の美のメンバーたちは、上野駅の雑踏をくぐり抜け、緑豊かな上野公園を進みながら、不忍池へと足を向けた。もうすぐ見頃を迎える蓮の花が、池のほとりで優雅にその姿を見せ始めている。動物園通りを歩いていると、ふと目に留まったのは、日本で最初に開業した上野動物園のモノレール。その姿に、幼い頃に家族と乗った懐かしい記憶が胸によみがえる。しかし、今では老朽化により運行を終えており、その事実に一抹の寂しさが漂う。物悲しい思いを胸にモノレールを通り過ぎ、一本目のT字路を左に曲がると、少し進んだ先に世俗を離れた異空間への入り口が姿を現す。そう、こここそが本日の目的地、江戸中期に活躍した名茶匠・川上不白を流祖とする江戸千家十代川上宗雪家元の道場である。



銀座美術主人 森田俊夫氏(以下、森田):お家元、本日は御招きいただき有難うございます。

江戸千家家元 川上宗雪氏(以下、家元):皆様ようこそお待ちしておりました。既においでいただいた方も、初めての方もいらっしゃいますね。僅かな時間ですが楽しくお話しをしたいと思います。挨拶の後に、小間の茶室や露地などをご覧いただき、向こう側の教場に集まってちょっと乾杯しようと思っています。最後に建物の中心であるここ「花月の間」で一服差し上げます。噂だと、夜の会が一番の目的のようで(笑)。

一同:(笑)

森田:しっかり予約しておりますので。

一同:(笑)

家元:息子の新柳です。本名は博之で、「新柳」は茶名です。川上不白も若い頃に「新柳」と名乗っており、その名前を継ぎました。あと、家内の博子です。茶名は「雲鶴」と申します。



古角商店主人古角博治氏(以下、古角):古角商店の古角と申します。はじめて私がここに伺ったのは平山堂に佐藤さんが居た頃に、牧谿を見に一緒に伺ったのが最初でした。

家元:瀟湘八景の。

古角:はい、遠浦帰帆図です。真っ暗な中、手燭の蝋燭の明かりで船が本当に動いているように見えて大変感激したことを覚えています。

江戸千家若宗匠川上新柳氏 (以下、新柳):あの伝説の会ですね。

家元:古角さんのお店はどちらに?

古角:赤坂です。お家元とは手紙の波多野先生の会でご一緒させていただいておりました。

家元:それは存じております。古角さんからは、何かいただきましたかね。

古角:いいえ、まだ無いかもしれません。赤坂の方にお出ましの折はお店の方にもお立ち寄りください。どうぞよろしくお願いいたします。

玉鳳堂主人 山田高久氏(以下、山田):玉鳳堂の山田です。十年以上前に先代の味岡松華園の味岡一郎さんと二人で月釜の方にご一緒させていただきました。その時に奥様の美味しい手料理も頂戴しました。「お茶」と言うと身構えてしまいますが、ざっくばらんに気軽に出来るお家元の趣向で、とても楽しい時を過ごさせていただきました。本日もよろしくお願いいたします。



河善主人河合知己氏(以下、河合):河善の河合と申します。三年前に亡くなった叔父は茶会などにお邪魔していたと思いますが、私は初めてなのでとても楽しみに参りました。お茶は遠州流を習っておりまして、遠州流の家元直門としてお稽古をしております。今日も、ここに来る前にお稽古に行ってお点前をしてきました。

家元:それでは、その流れで一点前お願いします。

一同:(笑)

家元:河合さんのお店は神谷町でしたか?

河合:神谷町の店は広すぎたので閉めまして、今は神楽坂に移転しました。遠州流の家元の近くで、マンションの一室の狭いところですが、またそこから始めようと思いましてやっております。今日はよろしくお願いいたします。

家元:次の方は?

一同:(笑)

新柳:内のお出入りの道具商の銀座美術森田さんと、息子さんの大揮さんです(笑)。

森田:はい、いつもお世話になっております。

家元:森田さんはここでお稽古をしています。稽古日の土曜日は、朝始まる前に必ず庭を掃除してくれます。



壽泉堂美術 樫本昌大氏(以下、樫本):寿泉堂の樫本です。店は神谷町の仙石山です。麻布台ヒルズが出来上がった真横で、大橋茶寮さんの手前です。神谷町で先代の頃からずっと商いをさせていただいております。何年か前に、お家元にお花入を求めていただきました。

家元:愛用していますよ。

樫本:それは有難うございます。お茶は裏千家をやっておりまして、最近は通えていないのですが赤坂の櫻井宗梅先生のところでお稽古をしておりました。今後ともよろしくお願いいたします。

家元:まず安坐にしましょう、お番茶をどうぞ。
 


古角:若宗匠は YOUTUBEで配信されていて、ちょっと拝見いたしました。昔から同じ事だけやっていれば良い訳ではないので、時代に合わせてやることも良い事だと思います。

家元:私はやりませんが、そういった事でもお茶の仲間が増えるみたいで時代が変わっていきますね。



家元:床は渡辺省亭で、向こうに見えるのは筑波山。霞ヶ浦の様子で、少し雨というか霞んでいる今頃の梅雨の景色じゃないかと思います。季節を描いた三幅対の内の一つです。富士山と桜の春、もう一つは武蔵野で秋、これはその内の夏です。

古角:お花も素敵で、我々には似つかわしくない大変綺麗なお花で。

新柳:お花は私が活けまして、山法師、水引、下野…。



家元:この額「香酣茶熟」は読めますか。中国の言葉です。「酣」は “カン ”と読んで、“たけなわ ”という意味です。香りがたけなわになった頃、茶が熟しているという意味で、お茶を製造するときの様子を表したもの。森鷗外の筆です。家の傍に「鷗外荘」と言って、元々は赤松家(赤松則良男爵)の建物がありました。鷗外がドイツから帰国した後、赤松家のお嬢さんと結婚し新婚生活を送った場所です。本人は本郷で有名になって観潮楼(かんちょうろう)で最後まで過ごしたのですが、最初の2年は池之端で過ごし、ここで鷗外は「舞姫」を書いて文壇デビューをしました。私の曽祖父「蓮々斎」と同じ時代です。家の南側に不忍池があるのですが、曽祖父の時代は家から池が見えたと聞いています。池も段々と埋め立てられてしまいました。鷗外もこの辺界隈のことも文章で書いています。こちらが東で、上野の山があります。反対側の西が本郷台地で東京大学があり、北が谷中の寺町。上野の台地と本郷の台地の間、谷間なので「下谷」と言います。不忍池の畔で、鷗外の頃は花園町と言っていました。上野の山に寛永寺という立派なお寺がありますが、そこの花を育てる場所であったらしい。今でこそ文教地区ですが、昔は寛永寺を中心とした寺町です。こちらは七軒町と言われていたので、家が7軒しかなかったのでしょう。この辺にも寛永寺の末寺や武家屋敷がありました。



河合:寛永寺は大きかったんですね、この辺一帯全部寛永寺ぐらいだったとか…

新柳:上野公園は一通り寛永寺でした。

家元:その前は藤堂家の江戸屋敷でしたが、徳川三代将軍の家光の要請で、家康以来の参謀の天海和尚によって寛永寺が建立されました。寛永年間に完成したので「寛永寺」と名付けられ、京都の比叡山延暦寺の分社として江戸に建てられました。

森田:あそこの護國院も塔頭でしょうか?

家元:皆そうです。今は無くなってしまいましたが、比叡山にある根本中堂もここにはありました。本当に巨大なお寺でした。



新柳:
場所としても京都を模したと言われており、京都御所の北東の鬼門に比叡山延暦寺と琵琶湖があるように、江戸城の北東の鬼門に寛永寺と不忍池があります。徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するために、この地に寛永寺が出来ました。
家元:江戸幕府からすれば、鬼門を守る大事なお寺ですから格式ある場所だったと思います。浅草もそうですが、段々と門前町として人口が多くなり、今はマンションだらけです。

一同:(笑)

古角:でも、ちょっと入ると静かで良いですね。

家元:ここは本当に谷間です。

新柳:鷗外荘がある旅館「水月ホテル鷗外荘」が閉館し、跡地にマンションを建てているので、今は工事の音で少し煩いです。
 



家元:
当流は、暴れん坊将軍でお馴染みの8代徳川吉宗の時代に派生した流派です。紀伊出身の藩主で、初めて将軍になったのが吉宗でした。吉宗が江戸に入ると、必然的に紀伊の勢力が江戸で中心になっていきます。和歌山と三重の境に新宮(しんぐう)という領地があり、水野家が治めていました。水野家は代々紀伊の江戸詰家老の役職で、紀伊藩の江戸での仕事に就いていました。川上不白は、新宮生まれで 15歳の時に水野家に仕官して江戸に行き、直ぐに京都の千家にお茶の留学をさせられました。ご存知かと思いますが、加賀藩には裏千家、高松藩には武者小路千家、紀伊藩には表千家と宗旦の子供たちがそれぞれ仕官していたので、将軍の吉宗は紀伊の藩主の時に、表千家のお茶をやっていました。江戸の主流は織部、遠州、石州の武家茶道でしたから、吉宗が「自分は千家流が良い」と通したらしく、江戸で千家流の指導者が必要となり、江戸詰家老の勤めだった川上不白は千家流の指導者になるように京都の表千家に留学させられました。15年修行し、30歳になって江戸に戻り水野家の茶坊主となりました。才覚があったようで、水野家の仕事だけではなく、紀伊藩の仕事や不白の弟子の中には田沼意次という名前もありました。田沼意次は吉宗に抜擢されて後に大老になった人で、不白の後援者の一人でもありました。将軍が千家流をはじめたことにより、各藩でも千家流の指導者が必要になり不白が出入りするようになりました。また、商人の冬木家を代表とする町人たちにも表千家の家元の代わりに活動し、江戸で千家流のお茶を広めました。その後、江戸では武家茶道も千家流の茶道も続いて、明治の終わりに益田鈍翁をはじめとする近代数寄者らが茶の湯を好みました。その頃は、表千家も裏千家も東京には少なかったので、不白流の茶人が多く財界人の茶坊主となりました。段々と、京都の家元の力が東京に入ってきて不白流から表千家、裏千家へと変わっていきました。江戸千家も何とか残って続けていますが流儀でお弟子さんを縛らない方が良いとずっとやって来ました。だから、内の流儀は大きくならないけど、結構みんな何となく楽しんでいると思います。お道具屋さんも、こうしてみんな知っているし、いいお客でも無いのに(笑)

一同:(笑)

家元:私はお茶の勉強も各流派、京都だったら堀内家や久田家とか、東京だったら遠州流などの各流儀に勉強に行きました。中でも遠州流の宗慶宗匠には強い影響を受けて、色々と教えていただきました。そういうやり方でやってはいますが、自分の流儀も潰したくないので社中大事でやっています。

古角:若宗匠も官休庵に水屋の勉強に長いこと行ってらっしゃって、不白以来 270年振りに京都へお茶の勉強をしに留学されたことになりますね。



新柳:修行として四年行っておりました。

家元:官休庵の家元も若宗匠も私と慶応大学で同窓生なので、そうしたご縁でお頼みしました。

森田:確か上田宗箇流の家元も同級生でしょうか。

家元:上田君は茶道部で一緒に青春時代を過ごしました。所で、今年は家元を息子に譲ることが家族会議で決まりました。私は隠居です(笑)

森田:肩の荷が下りて益々アクティブに動かれて、京橋界隈(骨董街)に出没されるのではないでしょうか?!

一同:(笑)

家元:いえいえ、静かにしますよ。それこそ息子をよろしくお願いいたします。
 

家元:皆さんから何か質問などあれば。

河合:益田鈍翁などは江戸千家のお茶をしていたと聞いていますが、高円寺にある不白流でしょうか?

家元:そうですね、浜町派の先生方が呼ばれていたと思います。家はどちらかというと水野家の茶頭という基本があるので、中々動けなかったのだと思います。不白自身は、江戸千家とか不白流とかは名乗っておらず、千家流です。江戸の後半から明治にかけて各藩に出入りしたり、色々な商人や町人のところに出入りしたり、今の様に京都との強いパイプが無いので、おのずから江戸千家や不白流として独立していきました。不白には私共の様な血筋の家もありますが、当時からお弟子筋がいくつもありました。各藩に出入りするのに、川上姓を与えて北は南部藩から南は土佐藩や久留米藩に自分の弟子を派遣したので、不白流は色々な流れがあります。



河合:久留米藩は結びつきが強かったのでしょうか。

家元:今日まで南部藩、土佐藩、久留米藩は続いています。それに今みたいに流儀とか家元では無く、皆さんのような茶道具屋さんがやるような事が本来の仕事ですから、明治の財界人の頃は主人のために茶坊主として働いたわけでしょう。

河合:千家といえども武家との繋がりもあったのですね。

家元:武家の世界にも千家流が沢山入っています。ただ、将軍などは石州流などの武家茶道が主流です。吉宗以降は、千家ではなく武家茶道に戻っています。

古角:千家流が明治以降に駄目になりますよね。裏千家でも又妙斎の頃から非常に貧しくなって、江戸千家さんもご苦労なさったのでしょうか?

家元:それは勿論。江戸から明治に移るときは、藩からの仕事が全く無くなるわけですから、お茶だけではなく色々な芸能関係や商人が苦労しました。俸禄をもらって生活している訳で、それが無くなるわけですから皆路頭に迷いました。三千家も皆そうらしい。それを支えたのは、有力なお弟子です。

古角:裏千家さんはそれこそ、宮尾登美子さんの小説「松風の家」にもなった時代がありますからね。表千家さんは三井さんのお蔭で…。

家元:戦後の茶道人口が右肩上がりの時代は、女子教育などに取り入れ新しいお茶の制度が成功しました。時流に応じた各流のトップの方針が上手くいきました。

古角:婦女子教育で弟子が増えたことによって、各流儀の壁が高くなった気がします。その昔、江戸末から明治の初め位までは今ほど差別というか区別は無かったように思います。

家元:昔もお茶を習いますが、大人になった時に「あなた何流だった?」「いや~何流だったかな…」という人が多かったと思いますよ(笑)そういうものだった思います。それはそれで習った先生を大事にするということは、今も昔も変わらないと思いますが、古角さんが言うように流儀同士に壁を作ったのは、流儀をつくるために形式主義が続いたからでしょうね。逆にそれによって茶道人口は増えました。昔はお茶が出来る人は限られていたわけですから、身分だけではなく、誰でも趣味としてお茶が習えるようになったわけですから、悪い事だけでなないと思います。その変わり、マイナス面も沢山あると思います
 

古角:お稽古だったのが、授業になってしまっていることもありますよね。私が通っていた裏千家の業躰先生のところでは、お茶会に来て「今日は有難うございました。大変勉強になりました」と言われるのが、お茶を教えている立場としては一番面白くない。お茶って会話じゃないですか、自分が作った雰囲気を楽しんでいただけたのか、そうではないのかということを聞きたいのに「勉強になった」と言われるのが一番寂しいと話をしていました。

家元:各時代、良いこともあれば悪いこともありますので、もうそれで愚痴を言っていても仕方ありません。本人が短い人生の中で、お茶という趣味を「良し」とすれば、目をつぶるところは目をつぶって、あとは自由に自分がしたいようにお茶をして、それで茶友が出来れば良いと思います。そこで、私はずっと「自宅のお茶」を提唱しています。お茶は本来自宅でやるもので、大寄せのように外でやるものではありません。流儀でも家元の初釜に大勢集めて、献茶で集めてとか…そういったものは消えなくても良いけど、そのためにお弟子を犠牲にさせるのは良くありません。皆、そういったお茶とは上手に離れて自分の家で自分なりのお茶が出来るように、そのために必要な道具を揃えて、呼んだり呼ばれたりすれば良いのです。それをジワジワ広げるべきと思います。ただ、いくらお弟子さんに言ってもやってくれません(笑)コロナで大寄せが出来ない時が、お茶が変わるチャンスだと思ったのですが、最近ではまた戻りつつあります。 内もそうですが、大きな流儀は今までのやり方が通じなくて、みんな人口を減らしています。トップの人たちは、なぜ減るのか本当に反省すれば、自分たちのやっているお茶がこれからの人たちには通じないことに気付くはずです。“お茶って良いものだな、やってみよう!! ”というお茶をやらないと…。そういうお茶をみんな密(ひそか)でもやって、そういうものだとなれば、時間に追われ、お金に追われ、つらい思いをしている人たちが、“お茶 ”に救われます。戦国時代の武将たちがそうだったように、明日命が無いという辛い状況の中で、お茶をやって救われて、“お茶って良いな! ”と思ったはずです。あの人たちは、畏まったお茶だったら、絶対にやらなかったはずです。お酒を呑んで二日酔いでは駄目だって分かったのでしょうね。呑むのも騒ぐのもいいけど、最後はお茶で締めました。そのような事に救われたのでしょうね。今と一緒です。今の時代の人々が「お茶って良いな!」と思うようなお茶を用意しないと、今の流儀のお茶だけでは、お茶は消えてしまいます。何だか私ばかり話していますね。そろそろ時間も押してきたようなので、建物を自由に見学ください。そのあと教場で一献差し上げます。




一同:(茶室他拝見)

河合:玄関に福富雪底老師の「来…」。

新柳:「来也(らいや)」と読みます。

河合:雪底老師もご関係があったのでしょうか。

家元:私が大学の頃は、廣徳寺が上野にあって参禅に行きました。その時のご住職です。

河合:うっかり下谷の廣徳寺…

家元:いいえ、“びっくり ”下谷の廣徳寺です(笑)

一同:(笑)

河合:うっかりしていました(笑)他にも、三つありましたよね。

新柳:おそれ入谷の鬼子母神。

河合:そうで有馬の水天宮…だったかな。

家元:みんな見ると立派な門だとかに驚いてのシャレ言葉です。雪底老師は私が最初に仕えた和尚様です。すごく厳しい方でした。

新柳:玄関から寄付、ここの小間にかけて文化財指定を受けております。江戸末期の建物です。



古角:この薄暗さが良いですね。見易い様に、今電気を付けていただいておりますが消してもらっても良いでしょうか。

新柳:はい。本来であれば自然光と使っても蝋燭の灯りですから…。<電気消灯 >

古角:あ~、これぐらいの明るさの方が光悦の墨の濃淡の調子が良く見えます。

山田:暗くても目が慣れてくると見えますね。

河合:このお茶室は使われるのですか。

新柳:毎月の月釜などでよく使っています。



山田:蹲も良いですね。

河合:蓮の連弁ですね。上がやけに茶色ぽっくなってますね。

古角:連弁だね、何かの台座を蹲として掘り直したのでしょうね。

河合:灯篭も古いですね。

新柳:春日灯篭です。

森田(大揮):名残惜しいところですが、そろそろ教場の支度が整いましたのでお進みください。


 

家元:乾杯しましょう。

山田:古角さん、乾杯のご挨拶をお願いします。

古角:お家元、本日はお招きいただき有難うございました。今後ともよろしくお願いいたします。

一同:乾杯。



家元:家内が用意しましたので、無くしてください。

一同:いえいえ、無くしてなんて勿体無い。



家元:この話が出たのはいつ頃でしたか?

森田:ちょうど一月くらい前に京橋・日本橋で行われました東京アートアンティークの茶の美の展示会にお家元がお越しになられた時にお誘いいただきました。あっという間に今日の日を迎えることができました。

古角:お家元は、家元を若宗匠に譲られてから何か予定はあるのでしょうか。

家元:皆さんで考えてくださいよ。どうしたら良いか…。

一同:(笑)。

古角:官休庵の家元と同級生ですか。

家元:歳は違うかもしれませんが、同学年です。

河合:私の叔父と古美術藪本さんのご主人、齋藤紫紅洞さんのご主人、みんな同じ歳です。

家元:昭和 21年生まれです。

古角:官休庵の家元は昭和 20酉年だから一つ上ですね。

家元:先日、息子を連れて挨拶に行ってきました。

河合:森田さんは、ここの庭をいつも掃除しているのですね。いつも土曜日に聞くと、「今日は家元だから…」と仰って、「家元で何をするのですか?」と尋ねると「掃除をしている」と仰っていたので、ここで掃除されていたのですね。

家元:そうです。本当にやって貰っています。あと、谷庄の谷村啓太さんも掃除に来ています。

河合:今、道具商の若手が皆こちらでお稽古をしています。

家元:みんなと言う程ではありませんが、多くいらしています。私、そんなに道具を買っている訳ではありませんが…月謝が安いからじゃないですか。

一同:(笑)。

河合:繭山龍泉堂さんから、谷庄さん、甍堂さん、皆さんこちらで。

古角:釜師の長野烈さんもこちらですよね。「良いよ、良いよ」と薦められます。

家元:何が良いのだか…(笑)



古角:しかし毎週掃除しているせいか、露地が綺麗ですね。苔もしっかり付いているし、縁側に座ると本当に気持ちいいですね。

樫本:昔の道具商は何をやっていたのでしょうか?

家元:茶坊主と同じです。水屋の準備やご主人の指示を受けながら掛物を選んだり、蔵から出してきたり、ある時はお花を生けたりお茶を点てる役割などもあったと思います。これも茶道具商の仕事ですよ。

河合:道具の事だけではなく、時にはご主人の話し相手も、お伽衆じゃないですが…。

家元:そういう事で図抜けたのが利休ですね。単なる運転手じゃなくてね。
 


古角:この中で光悦会の時にお寺に泊まった人は居ないよね?

樫本:私、泊まりましたよ(笑)。古角さんと一緒に!

古角:そうだそうだ!あの時は朝早く起きて、畳の拭き掃除から始まって、桟から何まで全部綺麗に掃除して、それが終わったら茶席の道具を飾って、火をおこして大変でした。

樫本:寒くて眠れなくて、布団がこんな薄っぺらかった。皆さんはお酒飲んで寝ちゃうけど、私はお酒を飲まないので。

森田:食事はお寺で?

古角:最初の夜は光悦寺でお弁当を食べて、二日目からは色々な差入があったり、外に食べに行ったりしました。

樫本:外は滅多になかったですね。

森田:あの辺りはお店など何も無いからね。

古角:行くときは町まで下りて。

河合:歩いて?

一同:(笑)

山田:歩いて行かないでしょ!

森田:醤油屋しかないよ。

河合:何年か前の光悦会でお家元とお会いして、古美術はりまの矢口さんも一緒に三人でお席回りさせていいただきました。三年くらい前でしたか…殆どの家元は茶席に入るときは並ばずに水屋から入りますが、お家元は一般の方と一緒に並んでいらっしゃって驚きました。

古角:樫本さんのお爺さんの中川さんもそうでした。水屋から「どうぞどうぞ」とすすめましたが、「私はこちらから」と言って、ちゃんと並んでいました。

河合:お家元は「何十年か振りに光悦会に来た」と仰っていましたね。

家元:久しぶりでした。

古角:木が生い茂って、庭がだいぶ狭くなったような気がします。昔は見晴らしが良くて、下まで見えていました。昔、水戸忠さんが釜を掛けた時に、光悦垣のテレホーンカードを作って、写真が残っているので後で見せるね。

河善:テレホンカード?死語ですよ(笑)

山田:そうですね、昔と大分雰囲気が変わった気がします。

河合:温暖化の所為か服装もコートが要らなくなりました。

森田:今は紅葉を赤くするために冷たいものをかけたりしているようです。

河合:えっ、本当?!「今年は紅葉が綺麗だね」「今年はイマイチだったね」と、毎年皆さん言っているじゃないですか。

古角:昔は会記の間にしおりの様に紅葉を挟んで家に持ち帰って、蛍光灯などの照明器具に挟んでいました。



家元:光悦で言えば、あそこが今の様になったのは戦後最近のことです。元々は本阿弥家の先祖供養が行われていた位牌所があった場所。光悦が眠るのは本法寺です。表千家、裏千家も元々は本法寺です。だから、本法寺に行かないと光悦には近づけません。

河合:今日の小間の掛軸も光悦で。

家元:偶々ね。先日、東博の光悦の展覧会「本阿弥光悦の大宇宙」で、光悦は当初から本法寺の檀家で、お寺に納めた法華経が展示されていました。私は京都に色々な縁がありまして、本法寺は川上家の菩提寺安立寺(台東区谷中)の本山です。ご住職とも親しいものですから、本法寺を借りて、今年の 11月に襲名記念で小さな展覧会を行います。光悦会の前後に皆さんも来てください。

森田:本法寺には有名な長谷川等伯の「仏涅槃図」がありましたね。

家元:光悦のちょっと前に、本法寺第十世住職の日通上人が美術好きで、等伯を本法寺のアトリエに入れました。等伯は北陸出身で元々日蓮宗ですから、本法寺を頼って寄宿したのでしょう。お寺には等伯の歴史的な作品が伝わっています。日通上人は唐絵なども沢山集め、現在は京博が保管しています。光悦寺も良いですが、本法寺も素晴らしい所です。展覧会は、11月 1日から 12月 1日に前半は「光悦展」、後半は「如心と不白展」です。川上不白は如心斎に仕えましたから。

▼令和6年本法寺秋季特別展 茶の湯江戸千家✕本法寺 茶の湯江戸千家十一代襲名記念
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古角:先ほどの話を聞くと、不白は「江戸千家」と自ら名乗ることは無かったそうで…

家元:名乗ることはありませんでした。如心斎の門人として千家流で通しました。

河合:将軍吉宗のお茶頭の関係だったとは…

家元:吉宗のお茶頭は原叟覚々斎で、吉宗が将軍になる頃には千家も代が変わっていましたので、不白は如心斎の門人になりました。内の流儀はそういった歴史背景があります。

河合:とても勉強になりました。私なんかは、どちらかと言えば偏っているので。

古角:遠州だけ?

河合:だけじゃないですけど、偏るじゃないですか。



家元:武家茶道ね。でも、利休は武家茶道とか町人茶道の前だから、本来隔たりは無いはずです。お茶が面白いか、道具が好きか、美術が好きか、そこに集まらなくては。

古角:お茶の中で、美術と展示の仕方は「君台観左右帳記」の影響を受けているのでしょうか。

家元:未だに基本としては残っていると思います。床の間は、大体その流れですから。

古角:今は床の間を作られるお宅が無いので掛物が売れません。

家元:本当にお茶が好きになり、美術が好きになり、日本が好きになれば床の間や畳も復活するはずです。自宅でお茶をするかどうかです。

古角:店に茶室があるのですが、床の間に掛物をかけるのと、壁に掛けるのでは全然違います。幸いにも、我々商売の中で茶会を手伝いに行ったりしていたので、一日中茶室に居ることもあります。時間によって茶室に入ってくる光が変わってくるので、掛物の雰囲気が変わってくる様子を目の当たりすることが出来ます。その話が出来ることが、我々幸せだなと思いますし、知らない方に伝えたいという思いがあります。だから、茶室を作ってくださいとは中々言えませんが…。

一同:(笑)

家元:お店で見せれば良いのですよ。ご自分が良いと思うものをお客様に見せて、それがジワジワ広がれば、お金のある人は頭の切り替えが出来るので、ビルの中でも茶室を作れるし、遠くにも作れます。「あ~、良いな!」というお茶を伝えれば、歳を取って余裕が出来たら今の時代であればどんどん出来ると思います。今はやろうと思うと、誰々さんみたいにお金が…そういう人でないとお茶が出来ない雰囲気に持って行ってしまっています。昔の通り身分だとかお金じゃない、対等に美だとか面白い心の内をお互いに通わせる、そういうお茶があればなくならないと思います。余裕の中に、自分が本当に良いと思うものを生活に取り入れて、本当に呼びたい人だけを呼んで。寧ろ、人生の後半に呼びたい人がいるかどうか、皆さんは商売で繋がっているので分かりませんが、本当に仲良くなれば、そういう間柄になるはずです。外で接待じゃ駄目ですよ。

古角:お客様に茶碗を見せるときは、テーブルの上に載せるのではなく、「畳の上」で見ていただくようにしています。それだけで全然違います。だから…

家元:あっ、息子が目配せしていますので、話途中で申し訳ございません。そろそろ茶室の「畳の上」でお茶をやりましょう。

一同:(笑)

<続きは11月1日ごろ>

 
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