3 茶室の光 ─茶碗の「ありよう」と「見方・見せ方」 木下史青 2024-11-21 UP

3-01 |数寄者と茶の湯道具と博物館

 平成14(2002)年2月の特別展「没後30周年 松永耳庵コレクション展」(「横山大観 その心と芸術」と同時期開催)が、筆者が関わった、東博での茶の湯に関わる最初の経験だった。私自身が遠州流茶道に入門したのは、それから約3年後だから、展覧会の準備期に目にするもの全てが新鮮であり、なるべく先入観のない目でいようと心掛けたのだが・・・。展覧会に出品された作品は耳庵ゆかりの名品の品々だが、 いま覚えていることと言えば、国宝「釈迦金棺出現図」(京都国立博物館蔵)と、茶室を再現したディスプレイくらいだ。つまり、茶の湯の「道具」ではなく、「釈迦金棺出現図」は仏教美術の絵画の名品であって、それは茶入や茶碗や茶杓でもなく、水指や釜や建水でもなく・・・要は私は茶道具の「見方」が分からなかったのである。
 
 学生時代に林屋晴三先生の「東洋陶磁史」は聴講していたが、記憶にあるのは「桃山の気分」とは何か、という、おそらく「作り手」の心構えを説き聞かせるような、そんな授業だったように思う。あの学校(東京芸術大学)は、どの講義も、美術館の実物資料も、作家を育てる「制作のための参考資料」という位置付けである。そんな筆者が学生の頃に手にし、今でも手にとることのある「別冊太陽 1982年2月号 特集=日本経済を築いた数寄者たち」(昭和57・平凡社)という、一冊の雑誌がある。表紙のレイアウトは、益田孝(鈍翁)を筆頭に、しんがりの松永安左エ門(耳庵)まで、「数寄者」であった明治の茶の湯のコレクターの名前のみが縦書きで並んでいる。そう、彼らの所縁の所蔵品をもとに設立された、多くの公立・私立ミュージアムのコレクションが、そのミュージアムの中心的な位置を占めているのだといえる。冒頭に書いた「松永耳庵コレクション展」とは、いうまでもなく、松永安左エ門が東博と福岡市立美術館へ寄贈した、茶の湯コレクションのお披露目展覧会だったのである。回りくどい話になったが、当時の展覧会図録を手に取って読み返すと、そこには東博の茶の湯コレクションの中核となる品々の多くが並んでいることに、今更のように驚かされる。東博の「茶の美術」に関わるコレクションは、松永安左エ門・耳庵や広田不孤斎など、明治財閥系の諸氏から大正・昭和期の寄贈品で成り立っていることを、僕はこの時期に学んだ。というより、東博をはじめとする、明治・大正・昭和期に生まれた多くの美術館・博物館のコレクション成立史は、財閥の解体とともにあったといえるのだろう。この雑誌を読んだ学生時代、私にとって博物館とは根津美術館や五島美術館、三井記念美術館、畠山記念館、サントリー美術館、遠山記念館、藤田美術館・・・等々であり、何れも明治以降の数寄者によるコミュニケーションで「遊んだ」モノの名残であり、また明治以前の室町~桃山~江戸時代の美術/ジャパニーズアート・マーケットであるとも考えられる。上述の、茶の湯コレクションのある美術館には、「茶室」を模した、あるいは再現した展示ケースがあって、そこに茶道具が展示されていることがある。筆者がこれまでに見た博物館における「茶室」は、北米・フィラデルフィア美術館の中にある「茶室」そのものの再現だが、欧米のミュージアムでは仏像を展示するためのお堂や、襖絵・屏風を展示するための広間座敷、掛軸のための床の間など、環境そのもののディスプレイを作ってしまう。それは、恐竜が生きていた時代のジュラ紀の自然環境を再現するディスプレイと同様のこと、と思えばいいのだろう。
 
 わが国での話に戻すと、日本にはオリジナルの「茶室」や「床の間」はあるが、そこに茶の湯道具を展示して「見る/見せる」よりは、実際に茶の湯を体験するほうがいいに決まっている。・・・なのだが、名品とされる道具を体験するわけにいかないのが博物館・美術館でのジレンマであり、その障壁・ハードルを取り除くための「GoPro茶会」の試みであったわけである。ここで、 「松永耳庵コレクション展」図録所収の、矢部良明氏のテキストを引用する。
 

★『いまとなっては、如何ともしがたいことだが、茶道具だけで耳庵の真の茶を語ることができないことを申し添え、真実の耳庵の茶は彼の死を境として烏有に帰したといわなくてはなりますまい。それが茶の湯の宿命でもある。』 
(矢部良明 やべよしあき  元東京国立博物館工芸課長、元郡山氏立美術館長)

 
 博物館・美術館における「茶室」を模した展示ケースや、「GoPro茶会」の試みとは、上述の矢部氏の「茶の湯の宿命」を、少しでも超越して、あの素晴らしい茶事・茶会での「茶の湯のリアル」な感動を「見せる、感じる」ための仕掛けのデザイン・方法論なのだと私は考えている。少なくとも、GoPro茶会で楽茶碗「串団子」を初めて手にした時の、なにか「背筋がゾワッ」とするような、言いようのない感じがした。
初めて畳から“浮いてしまような“あの感覚・・・あの背筋で感じたゾワッとした感覚が、映像で伝わらないかと思っている。


松永安左エ門
 
 
3-02 |国宝茶室 大徳寺龍光院 「密庵(みったん)」写し  ─特別展「大徳川展」 における仮設展示ケース

はじめに
博物館や美術館で「茶の湯」にかかわる展示デザインを考えるときの、方法論のようなものがある。掛物・花入・釜・茶入や水指・茶碗などの道具や、道具の組み合わせを見るだけで、そのコンセプトを理解できる人は、かなりの茶の湯上位者か知識人だろう。道具を個別に見ることと、「茶室」あるいは「茶室を模した展示ケース」で見ることとには、如何なるいみがあるのだろう。例えば、千 利休・古田織部・小堀遠州などの世界観・価値観、言い換えればコンセプトや「ありよう」はそもそも異なる。利休や織部や遠州には、其々先人を超えようとするコンセプト=強い意志「ありよう」があり、茶の湯道具の「見方」であり「見せ方」だと考える。「見方」と「見せ方」は、茶の湯の世界では「茶室」にこそ集約されて、それを体感し記憶に残るのではないだろうか、という私が考える方法論なのだ。以下は、より具体的に、「茶室」を考えるきっかけとなった展覧会における「茶室形展示ケース」の話をしようと思う。

■特別展「大徳川展」

 前号では松永安左エ門・耳庵の2002年の展覧会で作られた仮設の「茶室形展示ケース」を紹介した。今回は、これまで私が関わった展覧会で、最も思い出深い「茶室」を模した展示ケースの話である。私と同じ社中の先輩茶人であるK氏が設計、遠州流では馴染みのある株式会社 藤森工務店によって施工されたケースである。
参照url: http://www.sukiya-fujimori.jp/works-detail/daitokugawatenn.html

 2007年10月10日(水)~12月2日(日)に東京国立博物館平成館で開催された特別展「大徳川展」において作られた展示ケースで、僕も写真でしか見たことのない、あの 国宝茶室 大徳寺龍光院 「密庵(みったん)」写しのケースである。といっても僕は当時その茶室のことを知らず、K氏から「国宝指定された3つの茶室のうち、待庵と如庵は知られていて見学することも比較的容易だが、密庵はなかなか見ることが叶わない」と聞いて知ったくらいだった。
 特別展「大徳川展」に出品された、茶の湯に関する最も有名な出品作品は、茶入「新田」と「初花」が、揃って展示される時期があった事だろう。楢柴」が失われたことにより 天下の三肩衝と呼ばれた茶入が揃って展示されたのでは?と夢想するのは叶わぬ夢に違いないから、個人的にはそれよりも「密庵」写し展示ケースのイメージの方が、僕には今も心浮き立つ思い出である。妙な比較だろうか。(笑)
 とにかく茶の湯の魅力は「茶室」の中で道具と道具との関係性によって繰り広げられるハーモニーが大切と気づかされた、そんな記憶の断片が甦ってくる。当時の図録を捲ると、なぜ大徳川展で密庵写しの展示ケースを作ったのかの記述がある。


★『元和9年(1622)に二代将軍秀忠が尾張家の江戸屋敷を訪れた際の「御成」は、その後の将軍の御成や大名の公式な茶の湯の規範となった。この御成は「数寄の御成」ともよばれ、数寄屋や書院などの座敷ごとに名物道具が取り揃えられ、飾りつけられた。』
(図録「大徳川展」 244頁)

 この「御成」を取り仕切ったのが小堀遠州公であり、展覧会後に将軍秀忠が訪れたのは遠州公の江戸屋敷だったことを知って、 なるほど利休・織部・遠州と続く由縁が初めて気づかされた

★『龍光院に孤篷庵を営んだ年の十一月八日。 遠州公の江戸屋敷に将軍秀忠の御成がありました。神田と牛込門内にあった遠州公の屋敷のうち 御成があったのは日常の屋敷である神田でした。現在でいう千代田区駿河台三丁目辺り、オフィスビルが 立っています。八畳敷の書院に二畳敷きの上段の間格天井などの 豪華な装飾が施された部屋に炉が切られており、 秀忠にはこの書院でお茶を差し上げたと思われます。』
(遠州HP https://www.enshuryu.com/tag/%E9%BE%8D%E5%85%89%E9%99%A2/

 そのような訳で本展の機会に、遠州好みの「密庵」をリデザインしましょう・・・とK氏が展覧会企画者にアドバイスしてこの展示が実現。という経緯だったと思う。僕はこの時、あらためて遠州公のアート・ディレクターでありプロデューサーとしての手腕に憧れ、少しでも近づきたいなぁと思ったものでした。

 茶室の話に戻すと、国宝の三茶室といえば、その筆頭は千 利休の「待庵(たいあん)」であろう。学生の頃の古美術研修旅行で、京都の大山崎にある「」は中を覗いたことがあり、「狭くて暗い床だけど・・・」これが利休なる人の美学か、と正直あまり魅力を感じなかった覚えがある。アプローチの露地庭や、それなりの茶の湯のしつらい無しには、茶室を見ただけでは分からないものだな・・・ということか。

 待庵の次に見に行った「如庵(じょあん)」は、私が照明デザイン事務所勤務の頃で、国宝犬山城の天守に上ってゆったりと眺望を無崇めたあとに、いちおう見ておくか・・・と思い、数名で茶室内に入り、腰に張られた有名な「暦張り」の意匠を見て、織田有楽斎という人の遊びのセンスに感じ入って、どこか明るい茶室の印象だったことを覚えている。

■「密庵」
 そして大徳川展で、3つ目の国宝茶室「密庵」に出会ったのである。展示ケースとしての「密庵」は、いま関連資料の写真で見ると、<書院風の端正さと「草」の雰囲気をもつ> とある。茶道具は個体として賞玩されるのみならず、とりどりの組み合わせやそれがもたらす調和そのものが鑑賞されていたといえる>。 (『図録「大徳川展」 244頁)
その道具こそが「東山御物」であり「唐物」の飾りつけ方法に相応しい茶室、ということになる。くだいていうと、将軍格でないと収集も取り扱いもムリ、という道具を飾りつける格式を備えた茶室ということだと理解した。それならば、エンターテインメントな演出的照明ではなく、モノそのものの魅力を見せつつモノとモノとの関係性を表現するような、照明用語でいう「陰影を抑え」て「演色性(色の再現性)」に優れた素直なライティングを心掛けた。 ここに「飾られた」道具は以下の通り「大名物」「名物」は、名古屋 徳川美術館からの出品である。



※作品:
・元和御成記 江戸時代  17世紀   名古屋・徳川美術館 

・ 居布袋図堆朱香合(大名物)明時代 15世紀 名古屋・徳川美術館

・虚堂智愚墨跡(名物)紙本墨書 南宋時代 宝祐2年(1254)  名古屋・徳川美術館 、

・古銅砧形花生 銘 杵のをれ(名物) 元~明時代 14~15世紀  名古屋・徳川美術館 、
点前
・漢作肩衝茶入 銘 宗無(大名物)南宋時代 13世紀  名古屋・徳川美術館 、

・牡丹唐草文堆朱盆(薬師院盆)(名物)明時代 16世紀  名古屋・徳川美術館 、
・三島茶碗 銘 三島桶(大名物)朝鮮時代 16世紀  名古屋・徳川美術館 、
・竹茶杓 銘 泪(名物)千利休作 安土桃山時代 16世紀  名古屋・徳川美術館 (別ケース)、
・南蛮水指 銘 芋頭(大名物)16世紀  名古屋・徳川美術館 、
・古天明釜 銘 梶(名物)室町時代 15世紀  名古屋・徳川美術館

密庵の「ありよう」は大徳川展で理解した気がするが、それにしても、まだ見ぬ3つ目の本物の「密庵」とは、その字面どおりのミステリアスな魅力があるのだろうか。同じ大徳寺の塔頭・孤篷庵「忘筌」は、運よく「忘筌」扁額の正面での濃茶席経験があるが、想像するに庭園との見え隠れが絶妙な「忘筌」とは対極に位置するような息詰まるような「密度感」ある光の茶室なのではないだろうかと推測する。いつか「密庵」を体感するような機会があるだろうか・・・そんな思いを引きずりつつ、「大徳川展」終了後、仮設ケースは解体されて部材のみ収蔵庫へ保管されたのである。



■「染付」展

2007年の「大徳川展」から2年が経ち、 2009年7月14日(火) 〜 9月6日(日)開催の 特別展「染付-藍が彩るアジアの器」で、「密庵」写しの展示ケースは再度日の目を見ることになる。季節は夏から初秋にかけての企画展のなかで、盛夏の暑さ忘れの夜、月見の茶会>をテーマに、東博のコレクションから茶の湯に関わる品が取り合わせられた。





※作品
・月自画賛 松花堂昭乗筆 江戸時代 ・ 17世紀
・玉兎搗薬文磚 朝鮮半島 制作地:朝鮮 楽浪 ・1~2世紀 土製(小倉コレクション保存会寄贈)

・古染付手桶形水指 中国・景徳鎮窯 明時代 ・ 17世紀 (広田松繁氏寄贈)
・柿の蔕茶碗 銘唐衣 朝鮮半島 朝鮮時代 ・ 16~17世紀(広田松繁氏寄贈)

・青磁象嵌菊花文茶器 朝鮮 高麗時代 ・ 12~13世紀(横河民輔氏寄贈)
・切合丸釜・鉄風炉 辻与次郎作 安土桃山~江戸時代 ・ 16~17世紀(山崎勝氏寄贈)

・堆朱牧童交合 明時代・16世紀 (松永安左エ門氏寄贈)
・黒釉文淋茶入 銘望月 薩摩 江戸時代・17世紀 (松永安左エ門氏寄贈)

・竹茶杓 銘埋火 小堀遠州作 江戸時代・17世紀 (松永安左エ門氏寄贈)
 
この展覧会では、展覧会を企画した研究員が述べる「ひかえめな風情の名脇役」たる「古染付手桶形水指 」にたいして、注目を集めるような演出照明を用意した。(画像参照)
そんな演出が「密庵」写しの展示ケースの中で、松永耳庵旧蔵の茶入「望月」と 遠州公が自ら削った茶杓「埋火」と共演したことで、試みることが叶ったように思う。
 
残暑厳しい気候でも涼やかに過ごす気持ちを・・・という茶の湯者の心構えと工夫について思うところではあるけれど、ここ数年の酷暑は茶の湯の季節感を狂わせるのに十分である。
 

3-03 |「黄金の茶室」─茶人 豊臣秀吉 を考える

【茶の美談】
  1-01|GoPro茶会@東博
  1-02|道具 “置き合わせ” と “茶碗の鑑賞”
  1-03|茶室「転合庵」は “向切”
 
 2-01 |楽茶碗という茶碗
 2-02 樂長入 「串団子」
 2-03 楽茶碗の「質感」  ―バーチャル茶の湯体験とは
 
3 茶室の光 ─茶碗の「ありよう」と「見方・見せ方」
 3-01 | 数寄者と茶の湯道具と博物館
 3-02 | 国宝茶室 大徳寺龍光院 「密庵(みったん)」写し  ─特別展「大徳川展」 における仮設展示ケース
 
3-03 |「黄金の茶室」─茶人 豊臣秀吉 を考える
 
《茶室》
 平成11(1999)年10月~11月  特別展「金と銀  かがやきの日本美術 : 平成館開館記念特別展」
 平成14(2002)年  2月~  3月  特別展「没後30周年 松永耳庵コレクション展」
 平成19(2007)年10月~12月  特別展「大徳川展」
 密庵写し
 平成21(2009)年  7月〜  9月  特別展「染付-藍が彩るアジアの器」


勧められるままに 【茶の美談】 を書いていたら、なんとなく連載の体を為してきてしまった。ほんとうに “茶の湯” というものは、門戸が広く開かれて入門を許されつつ、マイペースで茶に関わっていると、いつの間にやら深淵なるものへの興味に嵌っていることに気づく。この、日本文化を豊かにしてきたお茶の世界を、拙文を読んでいただけるかぎり、博物館に身を置く立場から覗いてみることにしよう。と書いてみて、次にどんな茶室における光の様相について思うところについて書こうかと、これまでのテーマを振り返ると、はじめに、 1 =「茶の湯文化」を“伝える”試み、つづいて、2=遠州流的「楽茶碗」の異次元感覚との遭遇、ときて、3=茶室の光 ─茶碗の「ありよう」と「見方・見せ方」と展開しているから、さて次に考えるべきは・・・「黄金の茶室」だ。

私が「黄金の茶室」の展示に初めて関わったのは、平成11(1999)年10月~11月に開催された、特別展「金と銀  かがやきの日本美術」でのことで、この展覧会は、今では東博の特別展会場として、誰でもが知るところの「平成館」開館記念特別展であり、すなわち、皇太子殿下(現在の天皇陛下)のご成婚を記念して建設された、平成館の杮落しの展覧会だった。特別展「金と銀」は、日本美術における“金と銀”にまつわる考古資料から仏教美術、金のきらびやかさ・いぶし銀の輝きを放つ文化財の数々が展観された。茶の湯道具で「金」といえば、その代表は「黄金の茶室」に違いないだろうが、その実物が現存することを私は知らなかった。いま思い出そうとして瞼を閉じれば、薄暗い展示室の中で妖しく金色の光を放つ、金台子の茶道具一式の様子であり、造形的な評価よりも、貴金属として最上の評価である「金」の、時価相場価格としての評価が頭をかすめてしまう逸品である。言うまでもなく「黄金の茶室」は仮設ケースではなく、 展覧会への出品作品の1点であって、そもそもはモックアップ(組み立て式)の茶室ということである。展示作業の際、MOA美術館(静岡)から輸送されてきた「黄金の茶室」の専用梱包用の数箱を開梱し、床に並べられた茶室の部材を、要領よく組み立て作業が進められたのを覚えている。当時の図録解説には、次のようにある。

★『今回展示する茶室は、その秀吉の黄金の茶室を、文献資料などを読み解いて、できるだけ正確に復元したものである。広さは三畳、猩々緋( しょうじょうひ )の畳を敷き、障子には赤い紋紗が張られている。』
(「金と銀」図録 東京国立博物館 1999)

解説を読んでも、この茶室の内部空間で、金の茶の湯道具をもって繰り広げられる様子を想像すると、尋常じゃなく理解を超える悪趣味といえる映像しか凡人には思い浮かばない。しかしながら、天下人の頂点まで上り詰めた秀吉も、元の出自は平凡な身分であるはずだから、私のようなものでも「黄金の茶室」に近づく解釈はできないだろうかと、手近の本や資料を手繰ってみた。「黄金の茶室」は有名だが、文字通り「黄金」の眩さに目がくらんでしまい、とても理解し分かりやすそうで、実は常人には近づき難さのある茶室である。矢部良明氏は、「黄金の茶室」は「秀吉の実現した《寂び》」」であるとして、以下のように独自の解釈を加えている。この論は本質を突いていると私は思うのだがいかがであろうか。

★『「黄金と「寂び」?黄金と侘びの間違いじゃないの?」という声が聞こえてきそうである。「いや、間違いなく黄金と寂びです」と答えたい。誰が提唱したのか、調べてはいないが、秀吉の茶を「黄金」で捉え、利休の茶を「侘び」で捉える。この明快な把握はいかにもあざやかな印象を与えるから、大向こうから喝采をもって迎えられて、すっかり定着した昨今である。』
(矢部良明『茶人 豊臣秀吉』角川選書 2002)

さらに本書の次項で矢部氏は、利休と秀吉との茶の湯の捉え方について、次のように記述している。

★『秀吉は唐突に思い付く。「茶の湯は寂びだと利休はいう。では、その概念を打ち破って黄金をもってその象徴である茶席や茶道具を造らせてみよう」と。いうまでもなく黄金の茶席の創案である。』
(矢部良明『茶人 豊臣秀吉』角川選書 2002)

「侘び茶」について本稿で述べるのは大変恐れ多いことだが、秀吉と対照して利休の発想をひいてみると分かりやすい気がしてくる。「黄金の茶室」の本質が「寂び」であるという矢部氏の説は、「わび・さび」という述語そのものを、たいへん分かりやすく例えている。秀吉が創案したとされる「黄金の茶室」を、矢部良明氏は概念的に「寂び」と評しているが、少々難しい記述とも思われるので、より具体的に分かりやすく、この茶室を評している文献を探してみた。

★『「ヌバァ」と・・・‥‥ いや「ヌシュバァ」か・・・‥‥!?全面に金箔を張り 緋毛氈を敷き‥‥‥ 派手に過ぎると思うたが・・・‥彫刻や絵はなく 夜の闇の中 蝋燭の灯で見る様は・・・‥ 意外にも妖しく 渋い・・・‥夜会ともなれば 妖艶に変化する茶室‥・・・これはまさに華とわびとが同居する 今の世ではないか!! 』
(『へうげもの』4巻・第四十席「華」 (山田芳裕 講談社 2011) )

「黄金の茶室」で、秀吉が正親町天皇に一服点前をおこなうのは『へうげもの』4巻だが、この茶室の終焉となるのは12巻・第四十一席「Golden Years」である。このコミックをいちどは通読したことのある茶の湯者の方でも、是非「寂び」としての「黄金の茶室」ストーリーとして再読いただきたい。さて、それでも「黄金の茶室」は他のすべての茶室から別次元に感じてしまう。「皇室に献茶」するということが、現在まで続く皇室が「侘び」のイメージと沿わないことに証左があるのだろうか。では、矢部良明氏のいう「黄金の茶室が“寂び”」であるとは、どのようなことと捉えればよいのだろう。

★『関白となった秀吉は、みずから内裏でのイベントを主導してみせたが、ここに茶壺のみを献上した信長との差異がある。武家であった秀吉が公家化すること、それこそが公武の境界線の無効化を可能としたのである。「菊桐蒔絵大棗」や「黄金の茶室」こそ、武家の茶の湯を公家文化に融和してみせようとしてみせようとした創意としてみるべきである。』
(「豊臣秀吉の禁中献茶」  依田 徹『皇室と茶の湯』27頁 淡交社 2019)

「黄金の茶室」の「黄金」は、決して成金趣味のような「ギンギラギンに・・・」ではなく、金の茶の湯道具と相まって、品のある光り方をしていた。本稿の冒頭《いま思い出そうとして瞼を閉じれば、薄暗い展示室の中で妖しく金色の光を放つ 》と私が記した光り方である。そこに「寂び」を感じるということか。照明デザインの専門的な表現を試みれば、─美術館用・高演色蛍光ランプを用いて間接照明的なカバーを作り、そこから発せられた柔らかな光を、茶室全面に張られた金箔が受ける。そのようにして出来た柔らかで包み込まれる光の空間と、緋色のアクセントカラーのその奥に、金台子の煌く茶の湯道具が浮かび上がる。。。「黄金の茶室」は、分解して箱に入れて容易に輸送できるという構造のためか、 その最期は「寂び」を体現する運命にあったようだ。秀吉なる人物の残酷な栄光と、滅びゆく運命とを併せ持つ茶室として、「寂び」なる輝きを放つ茶室に思えてくる。

★『名護屋(肥前)から再び大阪城に持ち帰られ、大阪城の落城とともに消失したものと考えられている。』
( 内田篤呉 (MOA美術館学芸部長)  「MOA美術館名品展 ―黄金の茶室とわび茶の世界ー」 一宮市博物館特別展図録 2003)

★『桃山時代の諸記録をもとに監修・堀口捨巳(建築家)、考証・稲垣栄三(東京大学名誉教授)、技術協力・早川正夫(建築家)によって昭和63(1988)年に復元したもので、平成25(2013)年に室瀬和美(漆芸家・重要無形文化財保持者)の監修のもと、金箔を全面に再施工したものである。』
(「黄金の茶室」解説 内田篤呉 (MOA美術館学芸部長)   『日本美術全集10 黄金とわび』 小学館 2013)

現在「黄金の茶室」(再現)は、静岡・熱海のMOA美術館にて見ることができるので、その輝きのさまを実際に見ていただきたい。



▼▼下記リンクより、過去の記事を御覧になれます▼▼
・1 「茶の湯文化」を“伝える”試み 木下史青
https://cha-no-bi.com/posts/view/160
・2 遠州流的「楽茶碗」の異次元感覚との遭遇 木下史青
https://cha-no-bi.com/posts/view/170
 

筆者紹介
木下史青 氏

■プロフィール
1965年東京生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科 博士後期課程修了 学位取得(美術)、株式会社ライティング プランナーズ アソシエーツを経て、1998年より専属の展示デザイナーとして東京国立博物館に勤務。
照明、配置、保存など展示に関するプロデュースを主な業務とし、「国宝 平等院展」「国宝 阿修羅展」をはじめとする特別展・総合文化展の展示デザインを手がける。現在、独立行政法人国立文化財機構 東京国立博物館 上席研究員(デザイン)。

■略 歴
2004年、東京国立博物館の本館リニューアルにおいて平常展示のリニューアルデザインを担当し、2006年日本デザイン学会年間作品賞、2016年「平等院ミュージアム鳳翔館」照明改修・北米照明学会照明賞「Award of Merit」、2017年「那覇市立壺屋焼物博物館」照明改修・北米照明学会照明賞「Award of Merit」を受賞。
著書:『博物館へ行こう』(岩波ジュニア新書)、『東京帝室博物館・復興本館の昼光照明計画(東京国立博物館 紀要)、共著に『昭和初期の博物館建築』(東海大学出版会)。

 
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